昨日の記事に載せた写真の光のラインについて、問い合わせが多くありました↓ ツアー終了後に鳴海さんが連れて行ってくれた玉泉寺で、 お寺の奥さまが妖精を観た場所へみんなで行った帰り道に パチリ。 何枚撮っても、違う光のラインが映ってるので、太陽光の反射とかではなさそうですが、 こんな写真が撮れちゃったので、 当然のように彼は、騒ぎ始めるわけです。 みつろうさん「いやー、やっぱり映っちゃいましたかぁ。 頑張って、抑えていたんだけどなぁ・・・。 でも、溢れちゃうんだろうなぁ 僕のこの、高い波動。 キリスト意識みたいな? そのー、なんというか、ブッダそのもの??」 すると、 のりぴーと美帆リーダーが、 「みつろうさんが凄いんじゃなくて、 撮った人が凄いんじゃね?」 と。 俺様の手柄を、横取りしようとするわけですよ!! 撮られた人からにじみ出る高波動を、 撮った人が凄いんじゃねーかっつって。 俺様の、御身体から、おにじみに、なられている、 お高い、お光の、おライン なのにですよ? 「お(御)が多すぎて、内容がまるで入ってこないわよ。」 凄い人。 果たしてそれって、 「凄い人」そのものが、すごいのでしょうか? それとも、 その人を、「凄い人」だと捕らえる事が出来た人の感性が、 凄いのでしょうか? 例えば、キリストさん↓ ↑めっちゃ、手から光を出してるんですが、 なぜだか今日は、誰も褒めてくれません。 キリちゃん「こ、こんなに光を手から出しとるのに、 どうなってんだ?? 今日は誰も「す、すげー!!」って褒めてくれないっ!!!」 それも、そのはず。 その日の教会は、子供たちの集会。 誰も、ピカピカおっさんになんて興味ない。 ピカピカおっさんがくれるであろう、キャンディにのみ焦点を合わせ中。 焦点がそこに合って無いから、 「ピカピカ」を感じないのだ。 キリストに興味が無い人には、 キリストの「凄さ」は映らない。 そう。 感じるためには、感じさせるモノと全く同じ容量の受容体が必要なんです。 「せかい」と「わたし」は同じ大きさです。 きっとあなたは、 「せかい」の方が大きいと思ってるでしょうが、 「あなた」と「せかい」は、まったく同じ大きさです。 だって、 その瞬間に感じている「せかい」とは、 その瞬間に「わたし」が受容できる量のみ なのだから。 「わたし」が感じきれる以上の「せかい」なんて、 そもそも「わたし」には映っていない。 「せかい」は「わたし」と同じ大きさ。 ネガフィルムの露光現象について詳しい人ならご存知でしょうが、 「感度」という設定値があり、 まぶしすぎると、逆になにも映らない。 その「まぶしさ」を捕らえきれるくらいの感度を、 受容体(フィルム)側も求められる。 100マブシイ だったら、 100マブサレル が求められるわけだ(笑)。 100マブシイ に対して、 30マブサレル のフィルムだと、続きをみる
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