いま、深夜の2時半。 マツリゴトが終わると、 そこには、マツリノアトが、ある。 深夜遅くまで、現場は撤去作業。 ピアノを純正にしてくれて、運び入れてくれた人たちや。 ギターやらドラムやらを面倒見た人たち。 NHKのような配信機材(300mの光ケーブルを敷設しました)を持って、 福岡から来てくれた人たち。 多くの「人」が動いたから、 「マツリゴト」になったんだろうなと。 いや、僕もクタクタなまま撤収して、 ホテルについて深夜だけど。 マツリゴトと マツリノアト。 これを、民俗学者の柳田國男は、「ハレ」と「ケ」と言った。 ハレが、非日常。 ケが、日常。 アマテラスが「晴れ」「ハレ」なら、 トヨケは、「ケ」。 日常の、神さま、ケ。 この「ケ」というのは、日常を送るためのエネルギーであり、 「ケ」が枯れることを、「ケガレ」と言うそうです。 その「ケガレ」は、 ハレというマツリゴトをもって「回復」する。 この3者のサイクルを図にすると、 ①ケ(日常)を送っていて、飽きが来た(ケガレ)。 やがて人は「ハレ」を求める。 ②「ハレ」の日(マツリゴト)を過ごして、 「ケガレ」が回復したら、 ③また、日常という「ケ」に戻っていく。 そしてまた、その日常に疲れたら(ケガレ)。 ハレのマツリゴトを起こし、 ケガレを払う。 この、「3」のエネルギーの、 繰り返し。 僕の詩集、 『毎日が幸せだったら、毎日は幸せと言えるだろうか?』 毎日が幸せだったら、毎日は幸せと言えるだろうか?1,000円Amazon にも、書いたけど。 幸せな日(マツリゴト)が毎日続いたら、 幸せを、「幸せ」と感じる事が出来ないのだ。 これは「幸せに飽きるから」とかじゃなくて、 「段差」が無いと、エネルギーは発生しないので、 原理的な仕組みとして、 「幸せじゃない日」が無いと、「幸せな日」は感じ得ないのだ。 マツリノアトがあるから、マツリゴトが生きる。 詩集の87ページから 毎日 が 幸せだったら、毎日 は 幸せだろうか? 相対性のこの世界で、毎日が幸せだったら幸せを「幸せ」だと認識出来るだろうか? 幸せしか身の回りに無いのに、それを「幸せ」だと思えるだろうか?不幸なことがあって、それと比較することで初めて幸せの位置が決まるんじゃないだろうか?『毎日が幸せだったら、毎日は幸せだろうか?』 ケが、ハレを、「ハレ」に、 ハレが、ケを、「ケ」にしてくれている。 トヨケの神さまは、マツリゴトに照れてました。 「ケ」の神さまだから。 僕たちの「日常」を、支えてくれている神さまだから、 マツリゴトに、照れていました。 そんな、トヨケの神さまを続きをみる
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